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葬式と救済。

Posted on 6月 22nd, 2011

23の時、父親の葬式をした。

それまで自分の葬式なんていらない、灰を海にでも流してくれればいい、なんて中二病的な考えをしていた僕はこの時に葬式が遺族にとって実に合理的な儀式なのを知った。

家族の死はそれまで当たり前だった生活を激変させる、「おはよう」「おやすみ」そんな身近な言葉を交わしていた存在が急に居なくなりぽっかりと穴が開いたようになる。

この穴は少しずつ埋まって行き、やがては小さな穴を残したまま新たな日常となっていくのだが、それまでの間の心が揺れ動く移行期間を通夜から百箇日までの儀式が人を支えるのだ。

ショック状態でともすれば茫然と立ちすくんでしまいそうな時に、あれやこれやと前もって決められた段取りに合わせて慌ただしく動かされる事で少しずつ落ち着きをとりもどす。

読経やお香の匂いも人の心を落ち着かせる効果があり初めは頻繁におこなわれ徐々に間隔を開けていく。

一周忌、三回忌、七回忌と過ぎていくうちに、父という存在が故人という言葉に落ち着いて行く。

んな感じでつい先日二十何回忌を家族で行ったのだが、その時御院主さんが全員分の経本をもって来ていて下さって、お経の日本語直訳みたいなのを読んだ。

その内容は繰り返し繰り返し「救って下さい」と訴えかけるものだった、それはもう切実に訴えかけているので、そんなにしんどいんかぁお前ら、と思った。

ん?誰に対して?

たぶんそれはン100年か前に暮らした、この経を書き唱えた人々に対してだ。

それから思えば、僕らはどれだけ幸せな暮らしをしているのだろう、大震災直後の日本においてすらそこまで切実に救済は求められていない、被災地の人たちだって訴える先は国や政府といった同じ人々だ。

ムーライダーズがオウム事件を歌った「インスタント・シャングリラ」という曲の歌詞で「疫病の流行った頃の考えなんかに振り回されるのは勘弁して欲しい」というのがあったが、つまりはそういう事なのだろう。

そう考えれば僕たちの社会はすいぶんと良い方へ進化したと言えるのかもしれない。

そう思ったらなんだか少し気が楽になった気がした。

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葬式と救済。空堀町のほほん奇譚

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