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『先生はえらい』

Posted on 3月 7th, 2011

学びというのは、教える側の問題ではなく学ぶ側の問題であって、学ぶ姿勢さえあればミジンコにだってももクロちゃんにだって学べることは数多い。

学びが得られるという事は学ぶ前と学んだ後で多少なりとも自己変革を起こすという事で、それは例えばある事柄に対して「私はこう思う」という結論が有ったとして、「学ぶ前の」「私がこう思う」と「学んだ後の」「私がこう思う」が異なっているという事だ。
つまりまずこの自分を変えるというのを受け入れなければ学びは得られない。

ではどのように自分を変えていくのかを考えようとすると立ちはだかるのが「変わらないから自分なのだ」という非常に哲学的なアイデンティティーの問題だ、自分というものがホイホイと変わるようであれば「そもそもそれは自分なのか?」という自分探しの迷路に落ちかねないので自分というのはそう簡単に変わらないように強固であろうとする力が働くからだ。

この難題によく効くのが『先生はえらい』の呪文なのである。

自分の結論とは異なった先生の結論を正しい結論であると決め打ちし、答えから逆算して問題へとたどる事で今までの自分には見えていなかった新たな道筋が可視化され、今の自分からその可視化された道筋を通って新たな自分へとたどり着くのだ。

「この魚はブリだ」という自分に対し先生が「この魚はハマチだ」と言った場合、「この魚はハマチだ」を前提に「ハマチとは何か」を問いかけて行く事で「出生魚」の概念を理解し学ぶ事が出来、再びブリに出会った時も「もしかしたらブリではなくメジロかもしれない」と考える事の出来る自分を得る事が出来るという分けだ。

ま、僕ぐらいのおっさんになってしまうと、今まで散々学んだ結果の成れの果てなので、学び代なんてたいして残っていないし、そもそも学んだ結果幸せになれるかと言うと、必ずしもそうでは無かったりもするので「あ~ツバスでもハマチでもメジロでもブリでもなんでも旨かったらそれでえーねん、yellowtailで十分や」という事もままあったりするのだが。

11/07/05 付記
注意しなければ行けないのは「えらい」は手段であって事実ではないこと。
学びが得られたのは自分に学ぶ力が有っただけの事で
相手が本当に「えらい」という証明が得られた訳ではありません。

それが証拠に、「えらい(全肯定)」の代わりに「バカ(全否定)」でも同様に
学びは得る事が出来るからです。
ま、バカに学びたい人は少ないでしょうから「えらい」のほうが実用的ですが(^^;

なので、学びをえた自分でもう一度相手が「えらい」かどうか見極めてみるのも必要な手順でしょう。

12/02/14 さらに付記
加えて注意せねばならない事は、学びを得るには
「現状認識」という前提条件が先生と自分で一致していなければ
正しい学びは得られないということだ、これは簡単なように見えて
実は意外と間違える事が多いのだ「姑獲鳥の夏」という小説をご存じだろうか
人はえてして、見逃すはずの無い事を見逃している物なのだから。

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